25
翌朝、目が覚めると、ケンジはすぐにベッドから降りた。
窓の光りが、まだ焦点の定まらない視線をいたずらにもてあそんだ。
カーテンを開けてから、リプリーの部屋へ行ってみた。
リプリーの部屋は、応答がなかった。
「そのお客様は、まだチェックアウトされていません」
フロントに電話を掛けてもらったが、部屋は無人だった。
寝ているのかもしれなかった。
ケンジは尋ねた。
「出掛けたんじゃないですか」
「いえ、チェックアウトされていません」
その後にそれは無駄だということに気づいた。
あの男がそんな手続きを取って出ていくとは、とても思えない。
フロントにしてみれば、何か野獣のようなものが通った、くらいの認識だっただろう。
あの男の居場所は、仕事が無ければ、食い物にありつける場所と便所くらいしかない。
七階のレストランへ行ってみた。
案の定、リプリーはそこにいた。
「やあ、ケンジ。もう二つばかりパンを取って来てくれ。それからスープもだ」
「スープはいくつだい」
ケンジは尋ねた。
「ひとつだ。すぐ出掛けなきゃいけない。お前も支度しろ、一緒に行くんだ」
「どこへ」
「決まっているだろう、病院だ。ついでにいうが、支度というのは、お前が飯を食い、便所を済ませると言うことだ、分かったか、学生」
リプリーの座っている食卓には、年をとった夫婦が相伴していた。
四人掛けのテーブルだった。
まるで人間のランチタイムにウッドデッキに押し掛けた熊だ。
ケンジはつくづく思った。
この男は神経が太い。
俺なんか、他人と食事すると、何を食ったのか覚えていないのに…。
「あんたもここにお座りなさい」
老夫婦が手招いたので、ケンジは仕方なく料理を取りに行った。
リプリーの追加注文を受け取ると、自分はスープだけを手にして、席へついた。
戻ってみると、リプリーは爺さんと喧嘩していた。
問題は他愛のないことだった。
爺さん曰く。
「ナプキンが落ちたから、取ってくれ」
リプリー警部補、曰く。
「自分で取れ」
ケンジは思わず口を挟んだ。
「リプリー警部補、ちょっと親切にしたらどうですか?」
リプリーは不機嫌そうに眉をひそめた。
「親切?そんなものは捜査には役立たん」
老夫婦は困惑した表情を浮かべていた。爺さんが恐る恐る尋ねた。
「あの、もしかして警察の方ですか?」
リプリーは大きくうなずいた。
「そうだ。殺人事件の捜査中でな」
婆さんが小さな悲鳴を上げた。
「まあ!この静かなホテルで殺人ですって?」
ケンジは慌てて取り繕った。
「あの、実はですね…」
リプリーが遮った。「実はも何もない。事実だ」
老夫婦の顔が青ざめていく。ケンジは頭を抱えた。
婆さんが震える声で言った。
「犯人は捕まりましたの?」
「いいや、まだ潜伏中だ」
「私たち、今日チェックアウトなの。大丈夫かしら?」
リプリーは無表情で答えた。
「さあな。犯人を捕まえるまでは誰も安全とは言えん」
ケンジは慌てて付け加えた。
「あの、この人は冗談ばっかり言うんで…」
爺さんが突然立ち上がった。
「よし、荷物をまとめよう。今すぐチェックアウトだ!」
老夫婦は急いで席を立ち、レストランを出て行った。
ケンジはため息をついた。
「リプリーさん、あんまりですよ」
リプリーは平然と答えた。
「何が?おかげで静かに食事ができるじゃないか」
笑えるような笑えないような、複雑な気持ち。
ケンジは、リプリーの野獣のような食欲を拝観し、リプリーはケンジの品の良さを嘆いた後、二人はフロントで料金を清算した。
フロントでは、先ほどの老夫婦が大慌てで手続きをしていた。
ケンジたちを見ると、二人は小さな悲鳴を上げ、荷物を抱えて走り去っていった。
リプリーは満足げに言った。
「さて、これで邪魔者もいなくなったな。本格的に捜査を始めるか」
「邪魔って、何が邪魔なんてすか?弱い者を怖がらせて。あんたは少し年寄りの気持ちを知った方がいい」
ケンジは呆れながらも、この型破りな刑事についていくしかなかった。
つづく
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